hana日記

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カテゴリ:別府もくもく( 6 )


2010年 04月 09日

別府で忘れられないこと。。。


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こんなお風呂に毎日歩いて通ってました。
地域の住民が使うお風呂の料金はせいぜい150円から200円くらい。
回数券を買えばかなりの安さ。さすが別府。
「勝手にお金を入れて箱」しかない温泉も多かった。
その頃家で使うのはシャワーのみでお風呂場の掃除が楽でしたわ。

その頃住んでいた家の近くに「白菊寮」はありました。

<大分県立図書館> 豊の国情報ライブラリーより抜粋

別府市の児童福祉施設“光の園白菊寮”はシスター長田シゲが戦後、戦災孤児や混血児、浮浪児の世話をすることからスタートしました。当時別府にあった米軍キャンプの兵士たちは白菊寮を訪れてボランティア活動を行っていました。その兵士たちのなかに ジョン・O・アーンという将校がいました。彼はその後神奈川県の座間キャンプに異動しますが、昭和35年、白菊寮改築の資金が不足していると聞き、座間キャンプの兵士たちとある賭をして資金を得ることを思いつきました。その賭とは、神奈川から別府まで2週間で歩くという奇想天外なことでした。彼は見事に歩き通して賭は成功し、資金を得ました。彼はその後も同じような方法で資金を作り、それが基金となって白菊寮改築が昭和38年~41年にかけておこなわれました。

アーン少佐は昭和40年に米国勤務を命じられるのですが、自ら志願してベトナムに赴任します。ベトナムなら日本に近く、クリスマス停戦の時に日本に戻り、募金活動が続けられることなどから決意したものでした。しかし、昭和41年1月アーン少佐の愛娘、バーバラさんから1通の手紙が白菊寮に届きました。「クリスマス停戦の前、ジープで見回っていた際、地雷に乗り上げ吹き飛ばされた。」というアーン少佐の戦死を伝えるものでした。白菊寮は深い悲しみに包まれました。

この寮の敷地の中に小さな教会がありました。
一度その教会を訪ねた事が有りましたが、壁面に彼らの写真が飾ってありました。

若いアーン少佐の写真。永遠に若いままの写真。

この教会の前によくかわいい子供達が座り遊んでました。
この世を生きるのは厳しく辛い事ばかりが多いけど。
孤児院の改装資金を援助する事を偽善と笑われたであろけど。
アーン少佐のように自分の良心に沿って生きる事を見習いたいです。

私は時々この寮の事を思い出します。

戦後、進駐軍の基地となった別府。戦争の傷跡。
その時期は大変な混乱状況だったと土地のご老人に聞きました。
キリスト教の奉仕の精神が根本にあったと思いますが、
このような自分の良心に沿った行動を貫いた人も居たのですね。


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湯布院。家から近かったので平日に時々遊びに行きました。
由布岳のふもと。この辺りは積雪も多いのです。これが住んでみて驚いた事。
冬は九州とは信じられない程の寒さでした。

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大分、熊本を旅した時に感激したのは、わき水の豊かさでした。
水の国九州。山岳部のわき水は特に美しかった。
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by norihana333 | 2010-04-09 11:00 | 別府もくもく
2009年 06月 18日

卒業の日はやっぱり風が強かった

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これは山の上の大学(立命館アジア太平洋大学)の卒業式。
学長(モンテさん)が成績優秀生を讃えてるところです。
この日が子供の旅立ちの日でした。
おこちゃまは「頑張った」と自分で自分を褒めてました。ほんとだよ。偉かった。
毎日山有り谷有りでした。親もまた苦しかった。学費の支払いを含めて。苦笑
この大学は厳しい授業が多かったので、卒業生みんな達成感に溢れてました。

そうだよね〜 みんな頑張りました!

日本であって日本じゃない、異次元みたいな空間で学ぶって事は楽しくもあり、
特殊な環境に慣れるまでは苦痛だったかもしれません。

この大学では春と秋に入学式と卒業式を行います。
国により卒業と入学の時期が違うためですね。この写真は秋の卒業式です。
春と比べて人数が少ないため、外部の会場を借りず大学のホールで行われました。

その頃は全学生の60%が留学生だったため授業の半分が英語で行われてました。
その大学には沢山の英語、日本語、スペイン語などの語学教師が働いてた。
主人もその一人だったんだけど。。。

今は教師への契約状況が激変し、教員の環境はいろいろ変化したようです。

子供達もここに学んで、卒業しました。
長かったような短かったような日々。夢のようだな〜

この大学の卒業式には、わたしも毎回仕事がらみで参加させていただきました、
学生さんや先生達の色んな個性が見て取れて楽しかったです。
みんな可愛い私たちの子供たち。こまったちゃんも居たけれど。

卒業式の日はやっぱり強風でにわか雨。
雲が海から山側にぶっ飛んでいく景色の中
さまざまな民族衣装が風に舞い、晴れやかでした。
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by norihana333 | 2009-06-18 12:08 | 別府もくもく
2009年 02月 23日

明礬をまがってあがって

九州の2月。
寒い日に「山の上の学校」にバスに乗って出勤。

明礬の急カーブの辺りから山は一気に雪景色に変わります。
あそこのS字カーブは運転手泣かせの「曲がってる道」でした。
明礬の地域は温泉の地熱で雪が溶けてるけど、
いつもその上の日陰の道はかちかちでした。

バスはそろそろ、ゆっくり、とろとろ山をあがって行きました。
そして自衛隊の演習場を抜けて、くだり道に差し掛かった時。
バスの車体は悲鳴をあげました。緊張の一瞬が車内にはしる。
そして停止。

周りを見回すと、
凍った下り道は降りきれなかった放置車が数台並んでました。

「みなさん!すみませんが降りて歩いて下さい」

ドライバーさん運転を諦めたようです。
そんな事って。。。??
普通は考えられないけど。。。ほんとうに有ったこと。

もう終点だったから学生さんや学校の職員さんしか乗ってなかったと思う。
みなで素直にそろそろと道に降りて歩き始めました。
そうするしか道がない!仕事におくれるばい。
もう可笑しくなって話した事がない方とも笑って話しをしたました。

ああっさむっ!ここは九州のはずやろ!
と良く毒を吐いたもんです。笑 なんどもなんども。

でも、その寒さを覚えてる。

この日記で九州での思い出を書く時、
その地での「肌で覚えてる実感」を素手で取り出して、
触って感触を確かめる感があります。なでなで。

思い出すと、生々しく立ち上がって来る実感があります。
明礬温泉の湯気のように。



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ここは湯布院。良く行きました。
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by norihana333 | 2009-02-23 19:37 | 別府もくもく
2009年 02月 22日

ぐびぐびコーク

ラマザーン「断食(サウム)」が終わった日、
記念の食事会に招待されました。

大学の生協食堂に行った時、もう宴は始まってました。
みんな正装でした。あたたっ!ジーパンで参加しちゃった。

一つのテーブルに男性のみ。
次のテーブルには女性たち。

カップルで座ってるテーブルは有りませんでした。
たくさんのご夫婦が別々のテーブルに座ってました。あらら。
主人とわたしはどうしたら良いのか。。。一瞬躊躇したのですが。

招待してくれたインドネシアからの留学生さんが
違うテーブルに導いてくれました。ありがとう〜 もじもじ。

その、テーブルにはさまざまな事情の人達が集められてました。
某国の外交官の息子さんで海外をてんてんとした子、
某国の王族の子息だけど、原理主義的ではない子。
そこに私たち。そして数人の日本人と大学スタッフ。

どうも、リベラルテーブル(混合チーム)だったようです。
食事会主催者の苦労が身にしみました。たいへんだったね。

生協で働いて「このバーガーには何の肉が入ってるのか?」と
彼らに良く聞かれました。頑張って対応しました。喧嘩したこともあります。
あまりにも頑固で偏狭だったから。でもすぐ仲良くなれました。

食事の問題は、宗教的な彼らには切実な問題です。
違う環境に対応する事の困難さを毎年新入生で観察させて貰いました。
自分もそうだったように。その不器用な咆哮に困りながらも共感しました。

人にとって切実な問題は、信じる事によってまったく違うのだ。
それを拘束とも私は呼んでますが。他者がわいわい言う事もないですよね。
ひとはそれぞれちがうから。

日本にいてこんな環境に6年いれた事を感謝します。
パートナーの仕事の環境は年々悪化して行きましたが。。。

東京に来て、あの濃密で密接な山の上の環境がむやみに恋しくなるときが有ります。
いまがそうなのかな。東京で経済的には安定したけど時々さびしいかな。

その時のパーティーの机上に、何本もコカコーラが並んでたのが
なんだか印象的で不条理な感がいたしました。
反米の会話で、ぐびぐびコカコーラ。

なんだかとっても身体には悪そうだったので、
わたしも何杯も頂きました。当然食べました!!
断食あけの皆さんより食べちゃったかもです。笑 
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by norihana333 | 2009-02-22 01:40 | 別府もくもく
2009年 02月 21日

7階からの眺め

むかし学校の生協で働いておりました。6年ちかく。
その学校の生徒は、当時全学生の60%が海外からの留学生でした。
今は日本人の学生さんが増えてるようです。

留学生が多い環境ゆえ、生協のレジや旅行カウンターでの公用語は
日本語と英語でした。。。。不思議ですよね。
だってロケーションは日本の田舎の山の上でしたから。ふきっさらしの。
中国、韓国、タイ、インド、パプアニューギニアなどなど。
さまざまな趣きの英語が私の心と耳と口を鍛えてくれたと思います。

パートナーはそこで先生をさせて頂いてたので、
まあ「山頂の共働き」だったわけです。笑

リトアニアは旧ロシア連邦の国。

そこからの毎年数人の留学生が来てました。
やっぱり総じて頑張り屋さんが多かった。
シャイで北米の人間とは違う、ちょっと不器用で率直な気質に
わたしは好感をもってました。自分と似た部分を感じたんです。
彼らとあれこれ話しをしたり、楽しい時間を過ごしました。
気が合ったと言いますか。話してても楽だった。

時々リトアニア本国に送る郵便物の切手を買いに来てた「男の子」がいました。
成績優秀だったようで端正なたたずまいが印象にのこってます。
ただ、その子とは打ち解けて話しをした記憶がありません。

その子はある日、7階のアパートから身を投げました。

衝撃的でした。その当時いろいろな事が重なったらしく。。。
でも本当の理由は今でも分らないと思います。
お葬式の後にその子の友人と話しても、孤独だったとしか分りませんでした。

どんな思いで7階から日本の山や海を眺めてたんだろう。
あの緑や青はその子の心を少しは慰めたのかな。残念だったと思います。
若いって事はそれだけで苦しい事かもしれませんね。私もそうだったし。

今はどんな気持ちでいるんだろう。少しは楽になってるのかな。

名前も忘れかけてたけど、お顔は今でもくっきりと思い出せます。
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by norihana333 | 2009-02-21 17:28 | 別府もくもく
2009年 02月 01日

温泉地での痴漢の見分け方

夕方になると主人と別府の街を散歩するのが日課でした。

別府は第二次世界大戦中に空襲をあまり受けていない地域なので
小さい道が縦横無尽に街を走り、お散歩には最適でした。

歩きながら話すの大好き。

ある日の夜、うろうろ歩いて住宅地の暗い道に入ったところ、
目の前をパンツ(下着ね)だけを履いた男性がふっと横切ろうとしました。
とっさにああ〜〜〜痴漢だと思い。

「ぎゃ〜〜〜っ!」と声を上げたら、
相手も「ぎゃ〜!」と叫んでた。

暗い中まじまじとその人を見たら首にタオルを巻き、
右手にお風呂セットの桶を抱えてました。

道向こうに作ってた自分の温泉からの帰りだったようです。

ですので、、、痴漢ではなかった。
騒いでまことに済まんかったです。
要するに自分の家のお風呂からの帰り道だったのね。

わたしたちはその人に平謝りして海老の様に背を丸め
すすすっとその道から消えて行きました。

ですので、、、別府の街で暗闇の中ではだかの人を見ても
「桶」を抱えてたら変態ではないのだ。と学習いたしました。

見分け方は「お風呂セット」を持ってるかどうかですわ。

別府では上半身はだかで首にタオルを巻いて歩いてる男性が多かったわ〜
夏限定だけど。そうか人生の先輩方が温泉の横にベンチを置いて座ってたりね。
女性は髪にタオルをぐるぐる巻きにして歩いたり車を運転してる人が多かったわ。

ちなみに、別府では母屋から離した形でお風呂を建てて
温泉を引く形が多いようです。
その方が温泉の蒸気で家が傷みませんもんね。
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by norihana333 | 2009-02-01 22:24 | 別府もくもく